石川良一さん(稲城市長)

私は、親の代から稲城市に住んでいまして、古くからの住民という立場です。若いころは古い体質の地域性から出たいと思ったりしました。

伊藤先生のコミュニティの根元に関するお話の感想も含めながら、お話させていただきたいと思います。

<稲城市の多摩NT地区>
稲城市では、昭和63年から多摩NTの入居が始まりまして、今年で10年になります。また、来年3月には若葉台地域が完成し入居が始まりますが、今の住宅をめぐる様々な経済状況を考えて頭を悩ませている状態です。

<古い街と新しい街>
私の地元の地域では年3回、隣組(近所の15軒ほど)が集まって、飲み会をします。この集まりで何をするというわけではありませんが、これが地域のつながりになっています。

伝統的なつながりをもった生活を知っている一方で、多摩NTの生活もよく知っています。私自身NTで生活してみたいと思った事もあります。

つまり、稲城という地域に暮らすことで、古い街と新しい街の両方の良いところと悪いところが見えてくるのではないかと思います。

古い街、農村型社会では人間関係が義務的なものになったりします。そして、集団の秩序を乱すような強い自己主張はしません。しかし、組織、集団としての意思決定する機能は優れています。これは調和の力が強いためでもあります。しかし義務的な人間関係や人間関係が密であることから生活を見られているという息苦しい感覚もありますが、コミュニティとしては人的なネットワークは強いといえます。

一方、多摩NTは組織、集団での意思決定機能は弱いように感じます。これはNT地域での集まり、市民懇談会などで感じるのですが、個人個人が自分の主張や要望をしっかり持っているが、その意見が出された中で、議論して地域としての結論を出すという能力は低いのではないかと感じました。

私が市民懇談会に参加したときに、会社である程度の役職についている人が自分の意見を極端に強く主張したりします。その意見がどうも社会人としての常識から考えるとちょっと違うのでは、と思うようなことを言われます。会社生活ではプレッシャーなどもあり、その分自己抑制の反動か、地域では開放的な気分になり、そのようなことを言われるのかもしれません。

この自分の意見を主張するが、議論して組織としての結論を出すのは面倒だから省いてしまうという姿勢は、実際の生活でも表れてきます。これはたこつぼ型の人間関係に象徴されているのではないかと思います。たこつぼ型の人間関係とは、人間関係の面倒なこと、義務的な部分の排除ということです。自己主張だけは強くなり、周りが見えなくなる傾向が出てきているように感じます。

個がきちんとした形で確立し、さらに昔からのよい部分の伝統的な人間関係をうまく育てていくのが多摩NTの稲城地区の課題であり、目標です。

<互酬の原理と地域づくり>
先ほどの伊藤先生の助け合いが重くなるというお話についてですが、日本人の助け合いは「助けてもらったら、返すという」原理によっています。これは日本人の世間の道徳として通用しているので、NTでも古い土地でも共通したものでしょう。

地域でも社会の扶助関係、互酬の原理を超えたところで、地域での関係をどう作っていくのが今後の課題でしょう。そのためには互酬の原理をどう扱っていくのかが、人間関係の形成に大きく影響を与えることでしょう。この互酬の原理の捉え方は非常に難しい課題なのではないかと思いました。

<稲城市の今後の取り組み>
新しい街の人たちは必ずしも、西洋的な個の確立が出来ているとは思いません。やはり、新しい街の人も、日本人として日本独自の文化性の中で生活しているので、それを正面から捉えて、地域の人間関係をつくることが大切であると私は考えます。

また、稲城の取り組みとしては、稲城のNT地域でも消防団を作ろうとしています。地域の消防団というと既成市街地の典型ですが、NTでも若い人が地域の防災のためにボランティアとして活動してもよいのではないかと思っています。

また、既成市街地では昔からの習慣が風化しつつあります。古くからの人間関係を維持しよう、と意識しなければ、昔ながらの良い意味での相互依存のコミュニケーションは難しくなってきていると思います。

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