あふれる愛を感じま賞
「多摩ニュータウンが生まれた時」
小澤 貴美恵(公務員) 多摩市聖が丘
多摩丘陵さん、お元気ですか。
私の生まれた多摩川の向こう側府中から望むと、その風景は30年前とそう変わっていないけど、貴方の上に立ってみると、その変貌ぶりにびっくりですね。
私が子供の頃、過労で倒れた父のリハビリにと自転車で来た時、雑木林と所々の農家しか記憶がありません。でも今は、ニュータウンとして生まれ変わり、大勢の子供と大人とお年寄りとが、笑ったり、泣いたりして生活をしています。私の家族もその一員です。木を切られ、山を削られたのは、さぞ辛かったでしょう。でも、皆が幸せに暮らせるように考えられた新しい町ができ始めた時、あなたも嬉しかったのではないでしょうか。
今は、71歳となり、テニスもし元気でいる父と、幼き時よく来た聖蹟記念館の丸い建物の一部を見ることができるこの地に住む事になり、とても嬉しく思っています。ニュータウンは、老朽化、老齢化と問題も出てきたけれど、住む者としてより良い町になるよう努力したいと思います。これからも見守ってくださいね。
ニュータウンの人生、人生のニュータウン賞
「あなたへ」
小林 照子(主婦) 多摩市貝取
私があなたにであってから早10年。
私の身の回りにも、いろいろなことがあり、随分顔にもしわが増えました。
その間、あなたも、随分変わりましたね。自然と共存し、豊かな緑を残しながら、住宅都市から、様々な機能を備えた複合機能都市へと、大きく発展してきました。とても驚いています。この間、地域に根ざした様々な地域活動が芽生え、広まり、そして触れ合いが生まれ、今ではそれが心のかようシンフォニーを奏でているような気がします。
私もこれからの人生、泣いたり笑ったりしながら、主人と共に希望をもって歩んでいこうと思います。
あなたも、医療・福祉・環境等さまざまな問題を抱えて、これから、21世紀に向かうことと思いますが、街づくりの主役はどんな時も“人”です。
私も、この変わりゆく街をただ傍観せず、柔軟で、一人一人の創意が生きる街となるように、また、一人でもどんな方法でもかかわれる街となるように、知恵を出し、応援をしていきたいと思います。
そして、願わくば、振り返れば“わたしのふるさと”と感じ、未来へは、“夢のもてる街”と思えるような、そんな街に育っていってほしいのです。
みんなの知恵で、街を元気に育てま賞
「元気に育て未来都市」
久野 幸子(主婦)
八王子市南大沢
平成3年の春、新都庁舎や都立大学のどでっかい引越騒ぎの間隙を縫って辿り着いたのは多摩ニュータウンの南大沢でした。
標高160メートル程の丘陵地は花と緑につつまれていてのどかなかくれ里の様でした。大空の下、大山や丹沢の山岳が美しくその峰に輝くばかりの富士山が顔をのぞかせているのに只々感激したものです。
ところが駅前には郵便ポストすら見当たらず一軒のお店もなく途方に暮れました。やがて中郷公園道路や多摩ニュータウン通りも開通し駅前にも次々とビルが建ち新しい街が育ちはじめたのです。早速この貴重な街の成長記録を「南大沢のあゆみ」として書き続けています。
私達の趣味はサイクリングと散策でこの地図にもまだ載っていない未来都市を好奇心の塊となって駆け巡りつつ以前に住んだ千里ニュータウンや自然発生の街、練馬との比較対照とその住心地の違いを話し合う毎日でした。
この人工都市が人々の憧れの街になるかそれともゴーストタウンになるかは岐小道にきている様です。
お役所仕事にはない横のつながりのある憩いの街をみんなの知恵で民間の力もかりて育てて貰いたいと願っています。
自分の街を再発見しま賞
「住んでみたら 都だった」
杉浦 絹恵(主婦)
八王子市別所
始めて別所に越してきた時、なんてイヤな所に来てしまったと後悔ばかりでした。登っても登っても坂ばかり、一才の子供を連れ買い物に行き、”歩きたくない”の言葉にずいぶん泣かされた物です。5年たった今は住めば都とよく言った物で、この苦痛だった坂はよい運動場に変わりました。特に私の住んでいる別所はおもしろい所です。古いものと新しい場所の調和のとれた四谷見附橋・・・他には別所から唐木田に抜ける遊歩道があり、子供と探検して歩くのがとても楽しみです。山、土手、竹薮など、自然を上手に取り入れた人工のものなのですが、とても季節感のある所です。田舎育ちの私が子供の頃にかえった気分がし、子育てには、とても充実できる所です。これからもいろな所を子供たちと探検し、新しい発見をしていきたいと思っております。
間を生かしま賞
「多間」
下境 真一(病気療養中無職) 多摩市東寺方
日本人には古くから「間(ま)」という独特のものの考え方があります。それにはスペース・あいだ、という意味以上に深い趣が含まれています。昨年末、区内で暮らしていた私は、多摩ニュータウンに引っ越してきました。そうしたおかげで最近、暮らしにゆとりが増えたようです。今までの私はしらず、しらずのうちに、密集した街のあわただしい時間の流れに慣れていたようです。そんな私はこちらに来て二ヶ月、多摩の山々や大きな空を眺めているうちにそれまでの窮屈だった気持ちから解放されました。早朝、散歩にでて緩やかな山々の上に輝く朝日を仰いだ時、私はとてもやさしい気持ちになれます。空と緑の大きさの中にゆったりとした時の流れを感じるからです。まさしくその感覚が、「間」であるのではないでしょうか。ここ多摩ニュータウンは都心でも田舎でもない位置にあり、「ほどよく多い間(多間)」があります。私はそれがとても素敵だと思います。
暮らしの記録を続けま賞
「ご結婚おめでとう」
浜田 康子 (主婦)多摩市永山
十一月三日、文化の日、肌寒さを感じるくもり日、永山五丁目にある「けやき」の公園で、結婚のお披露目が行われた。
新郎新婦から知人を通して、ぜひ私にお会いしたいという連絡があり私は花束を持って参加させていただいた。午後三時、白いタキシード姿の花婿と青いドレスの花嫁が現れると、集まった人達から拍手がおこった。「けやき」が縁で結ばれたという話をお二人からうかがって、なんだかトレンディードラマの舞台の中に自分も立っているようでとてもほほえましく、花嫁になれそめをうかがった。…「浜田さんという方が団地が出来る時、お家とひきかえに一本のけやきの木を守って、その木が植えられている公園があるという話をきいていました。どこにあるのか探していたのですが、ある朝五時雨の中を歩いていると、空が急に晴れ、虹が西の空にかかり、ふと見るとそこにけやきの木が立っていました。私はけやきにひかれるように、公園の中に入り、こんなハッピーな気持ちを独り占めしていいのかしらと考え、パソコン通信でその時の自分の気持ちを送ったのです。そういう木を自分も見たいと返事を送ってきたのが彼だったのです。以来、私はつらい時、悲しい時、いつもけやきのところに来て泣いたり、励まされたりしてきました。
結婚式はぜひここでという希望がかない、今日、お会い出来て本当にうれしいです」…
何と照れくさい話だろう。そしてもう公園が出来て五年もたち、「けやき新聞」を出しはじめて十年が経った。こんなこともあると良いなと思っていた出来事が、今日実現しました。でもこのけやきの木に託した私の夢はまだまだこれから。けやきよ今の私じゃあ、あなたに対して恥ずかしい。この十年間、私は精一杯生きてきたかと問えば、私は恥ずかしい。もっと何か出来るはずだと思いつづけて、最近では「人生こんなものよ」なんて妥協が頭をもたげるのよ。良いのかなこれで。
保育園の保母さんをしている花嫁のまわりには、たくさんの子供たちが集まり、二人を祝福している。
私はベンチに腰を下ろし、ひとまわり大きくなったけやきをつくづくと見上げていた。私はけやきにほとんど会いに来ることがない。その方が良いのだ。人間、つらい時、悲しい時、「けやき」に会いに来るなんて私には似合わない。私のまわりには私を心づかってくださる人達がたくさんいる。けやきは他の人達に大いに夢を与えつづけてくれれば良い。
そのために私は、あなたをここに預けた。
優しく幸せな日々をおくりま賞
「幸せなホーム生活」
高橋 三ツ子
(無職) 多摩市山王下
私には子供が三人おりますが,1970年から一人暮らしをして来ましたので,老後も子供と同居せずと考え,70才まで勤めて,多摩市の軽費老人ホームに入所しました。私が多摩市を老後の生活の場と決めたのは,自然が沢山残って居るので大田区から引越しました。入所した連光寺のホームは桜の名所でした。明るいホームで晴れた日は三階の窓から丹沢山系の向こうに富士山が見えるすばらしい所でしたが,昨年4月引越して来た,山王下の新しいホームも,道路の向こう側は八王子市の東中野公園と又この上ない環境にあり,近くの松ケ谷団地に商店があり日用品の買い物に不自由を感じません。先日防災訓練の時は隣りの看護学校の若い学生さんと,団地の方たちも参加してくださり,とても力強く思いました。これまで老人ホームと云いますと,とにかく交通の便の悪いところが多かったのですが,私のホームは多摩ニュータウンの中にあるので,こんな理想的なホームが出来たのでしょうね。
万葉からの悠久の時を受け継ぎま賞
「多摩ニュータウン讃歌」
布施 直生(主婦) 多摩市豊ケ丘
多摩ニュータウンの誕生と同時に入居,その時小学校に入学した次女と5年生だった長女,彼女たちもそれぞれ二児の母親となって巣立っていった。
豊ケ丘の小高い丘の上の一角に住む私は,ある年のある日のある時,ベランダから初夏の青い空にアドバルーンが高く上がっているのをみた。万葉の歌が好きな私の頭にふっと巻20の一首の歌が浮かんだ。「赤駒を山野に放し捕りかたにて 多摩の横山歩ゆか遺らむ」その時,一千有余年も昔に歌われたこの歌の作者の哀歓が,ベランダにいる私の胸の中を風のように自然に吹きぬけていくのを感じ,悠久の時の一瞬を生きている自分をみつけたのだった。この時のこの思いは私がニュータウンに住み続けてきたことを象徴している。
今,夫と共に私は老いに向かいつつある。ということはこの地において老いの問題を抱えながら生きるということでもある。地域を,自分をしっかり見つめ,生き生きと行動して多摩ニュータウンを「ついのすみか」としたい。
活気に満ちた街にしま賞
「憧れの街」
山口 任見(主婦)多摩市貝取
今年の5月で多摩ニュータウンに暮らして3年になる。今から4年前に大阪の友人が子連れで遊びに来た際,多摩センター駅前の遊園地に行こうと言うので,訪れたのが多摩ニュータウンとの初めての出会いだった。当時住んでいたところには,大きな道路がアパートの横を通り,トラックの騒音と排気ガスに悩まされていたので,多摩ニュータウンに足を踏み入れたとき,その美しい街並みに感動し,思わずここに住みたい,と声を上げたほどである。
それから一年,思いが届いたのか,この街に移り住むことが出来た。遊歩道がいたる所にあり,車と交差する所も少なく,子供と散歩するにも安心して歩ける。唯,此処に来て気になる事。昼間外を歩いている人が少なく,閑散としているのである。美しいゆえの静かさも大切なのかもしれないが,人のざわめき,生活の臭いのする活気に満ちた街に発展してくれたら良いなと,思う人恋しい今日この頃なのである。
新しいパートナーシップを実践しま賞
「パートナーシップでつくる多摩NT」
松原 和男(都市計画コンサルタント) 多摩市落合
未来の実験都市としてスタートした多摩NTも、急激な高齢化に直面しようとしています。また、廃棄物や環境問題など、現代人類の抱える様々な困難にも直面しています。これらの問題に、今、生きている我々が真剣に取り組んでいくことが必要だと思います。
このとき、重要になってくるのが、行政と市民、企業等が各々の役割分担に基づいたパートナーシップではないでしょうか。現代の抱える諸問題は、行政だけで解決できる問題ではなく、人材や財源、ノウハウの面からも多様な人々が協力しあう仕組みをつくっていかないと克服できないのではないでしょうか。市民の中にはボランティアの心も育っています。また、高齢者や障害者の問題に真剣に取り組んでいる人もたくさんいます。こういう優しい心を持った人たちの実践が持続できるような社会、また、そのような心を多くの人たちに広げていくことができるような社会、その実現が困難を克服する道ではないかと思います。
多摩NTこそ、21世紀の都市や自治体をリードする、新しいパートナーシップを実践していく仕組みをつくることのできるまちだと思います。
元気再生産業を探しま賞
「わが街,多摩市に新しい地場産業を」
柏倉 利明(マーケティングプランナー) 多摩市永山
・「産業」が「文化」を産み,「情報」発信ができるという理念が,私の提案の基本 スタンスです。多摩市の産業って何だろう。関戸で新世帯を持ち,永山に移って, 多摩市四半世紀以上も住み続け,ふるさと多摩ニュータウンを想うときいつも感じ ていることです。
・この街で生まれた息子や娘は思い出をつくりながら生活し,やがて出ていくでしょ う。それは私が育った山形県天童市に対してと同じことです。私たち夫婦は,ずっ とこの街に住み続けるつもりですから,出ていった彼らが帰郷したときの受皿にな れるはずです。
・しかし,この街に住んだ多くの人たちにとって,出ていったら帰郷しにくい街に なっています。多摩ニュータウンは経過する街でしかないのでしょうか。団地の集 合住居の構造上の問題もあり,一戸建住居への根強い願望もあって,人はこの街を 捨てていきます。
・この街は都心に対しての「サブ」の街,ベッドタウンという認識があります。それ はこの街にこれといった産業がないためもありましょう。かつては農業という産業 がありました。ニュータウン化という都市化の波はこの産業を追いやってしまいま した。
・この街への大手企業の進出も増えています。しかし,これらの企業の産業のほとん どはニュータウンの産業とはなり得ません。地場産業とは,少なくても地域住民の 半数位が生活依存できるものであり,通民だけではなく,住民が働ける産業である べきでしょう。
・まず地場産業の整備振興を,というのが私の考えです。多摩ニュータウンの地場産 業とは「元気再生産業」です。この街に帰ってきて,元気になってまた出ていける。 住民だけでにはなく,訪民,通民にとっても「効く」そんな産業が,この街の産業 であるべきです。
・この産業は,従来型のハード産業ではありません。サイバースペース時代のソフト 産業であり,今,多摩市で展開されているビジネスが,大きな投資なしに「元気再 生産業」に衣更えできる「言い出しっぺが勝つ」産業です。「旗振り役」が必要な 産業です。
・
コニュニティの活性化が必要です。私は多摩市に住む私たち「親父たち」からの 行動を提案し続けています(いきいき多摩提案)。そして,いま,息子,娘たちを 中心とした,かつての地域社会にあった「青年会活動」の展開を,提案先がないま まに模索しています。
震災に負けないで賞
「多摩に移り住んで」
佐々木 康子(無職) 多摩市豊ヶ丘
二年前の阪神大震災で被災し一昨年七月縁合って多摩に越してきました。生まれ育った神戸を離れ東も西も判らない新しい環境に馴染む事は、た易い事ではありませんでした。でもこの地で二度目のお正月を迎えた今漸く両足が多摩の地にしっかり着いた感じが致します。そして多摩と神戸には共通点が多いことに気付いたのです。一言で言えばそれは自然とオシャレが見事に融合しているということです。センター駅からなだらかな傾斜をもってパルテノンの丘に向かう大通り、両側には緑の木々、四季折々の花が そしてそびえ立つベネッセの近代建築が視野に入りそれは神戸の坂の多い異人館通りと共通した景観であり モダンな街のたたずまいを見せています。この一年半の間に少しずつ周辺を尋ねて神戸の街の一部分を切り取ってこちらにはめ込んでもすっぽり納まるのではと 何度錯覚したことでしょう。
神戸は市民意識が高く人情も厚い街と言われその事は はからずもい今回非常の時に譲り合い助け合った姿となりました。願わくば多摩も新しい気風の中に文化の成熟と人情の温かさが育って欲しいと祈って止みません。
関西から友を迎える度に 私は大通りをゆっくり上がって、グリーンライブセンターを訪ね 温室の花々、ガーデンのハーブ達と親しむのをもてなしの一つとしています。私が多摩の土地・空気に早く慣れることができたのも、こんなところに因るのだろうかと、今は地縁いうことを沁々考えさせられています。
牛も参加しま賞
「私もニュータウンの住人です」
鈴木 亨(畜産業)八王子市堀之内
明治の40年代、現在でいうと八王子市松木の井草甫三郎さんが、千葉の先進地から私をつれてきた。そして、ここ南多摩に私たちの仲間が増えてきた。この辺の農家は「かいこさん」と「牛」で仕事をしてきた。私は今、八王子市堀之内寺沢という所に住んでいるが、私の先代達はほんとうにのどかな多摩丘陵の点在する牛小屋に住み牛乳を搾られていた。何年前だったろうか、昭和40年頃 私達の牛小屋のまわりに変化が起きた 人はどんどんのどかな丘陵をけずり始めて、ただ草もはえないような土だけの土地にしてコンクリートの建物がたち、おおぜいの人間が住みつくようになった。そうだな、昭和45年頃からだろうか、都市計画というなんかよくわからない人間のきまりごとができた。私たちのすまいである牛小屋が少なくなってしまった。そのかわり、人間の住む家が増えてきた・・ 私はなんとか、私の飼い主さんがなんとか私達と一緒にくらしているが、これからのことが不安だ。でも 新しく住みついた人間が、日曜日に私の住む堀之内寺沢に散歩がてら遊びにくる。みんな とってもいい顔して、楽しんでいるようだ。そう 私達もこのかわりつつある多摩ニュータウンのふちで人間達と一緒にくらしたらいいなといつも感じている。私の仕事である牛乳をニュータウンの人達に飲んでもらい共に住んでいけたらと牛小屋のなかから遠くに見える高層住宅をみながらいつも考えているものです。
新しい田舎を若者たちが築きま賞
「新しい田舎をつくろう」
岩永 久佳(大学生) 多摩市諏訪
多摩ニュータウンの玄関口永山近辺より西へ西へと進むほど人も街の活力もあふれ若さを感じる。新しくなればなるほど若い世代が多く住んでいるからであろう。ニュータウン初期にできた地域は人がそれなりに定着し,それ相応の落ち着きを見せている。街の落ち着きと共に高年齢層も増え,そのせいかひっそりと静まり返っていると言っても過言ではない。どんな新しい街でも人が定着するということは,いずれ高齢化地域を迎えると言うことに結びつく。ニュータウンは核家族向きである。ニュータウンは地緑が薄い。それは仕方ない運命である。高齢社会とまちづくりがクローズアップする中でニュータウンもまた大きな不安を抱えている。しかし,ニュータウンはそこ独自の文化を古い伝統というしがらみに縛られず何もない0のところから創造していけるし,そうしてきたと思う。だからこそ新しい街なのである。住む人が幾らでも手を加えクリエイトできる可能性を限りなく持っているところだ。理想を現実に変えていきやすいといえるかもしれない。そこにニュータウンのおもしろさがあると思う。そこで私は,人の定着と共にニュータウンから脱皮し,ただの新しい街でなく,町になっていくことを希望したい。つまりニュータウンを田舎にしよう。新しい田舎になれるようなニュータウン文化をクリエイトしていきたい。ニュータウンを巣立っていった子供が帰ってきやすいような地域をつくり,新しい家族関係をつくっていけるようにし,高齢者だけの町,都市の中の過疎地域として町の活気がしぼんでいくことだけは避けたい。田舎にするためのニュータウンはもはやオールドタウンとしてのそこに特徴あるまちづくりを持った新しい町なのではないだろうか。
希望の未来を託しま賞
「ニュータウンを思うとき」
川口陽士(多摩市立西落合小学校 6年)
多摩市落合
ニュータウンが30周年ということを、文章で表せないので、川柳にして感じたこと、思ったことを書いてみました。
ニュータウン 百年までは 射程内
(ニュータウンができて30年、100年なんてすぐにきてしまうよ)
ニュータウン 30なんて 序の口だ
(まだまだ、発展途上のニュータウン、30歳になったではなく、
これからもっともっとまちとして、がんばっていかなくては)
環境を 残して開発 ニュータウン
(公園が有るし、緑が多いと思う。親戚の家や、他の地域に行くとき、 ニュータウンは環境には恵まれているとおもう)
ニュータウン 五輪大会を 開催だ
(僕等のまちで、オリンピックが開催されたら、うれしいな)
ニュータウン 恒星みたいに ならないで
(太陽みたいな自分で輝く星はすばらしいけど、ふくれすぎて
何れ爆発してしまう。ニュータウンも輝くのはすばらしいけど、
人口をふくれすぎて、壊れないように願っています)
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