【想い出、移りかわり】
1.「そして21年」
松浦 修(会社員) 八王子市松が谷
昭和51年3月。広大な造成地の中に異様に鎮座する多摩センター駅を降り、藁葺きの旧家を横に見ながら松が谷団地に向かった。商店は一軒もない。タバコを買うのも、飲み物を買うのも諦めてしまった。4歳の娘の手を取り、大きなお腹を抱えた妻と共に家族3人は前夜の雨でぬかるんだ道らしき坂を上ってゆく。革靴でモデルルーム見学に来たことを悔やんでしまった。はたしてこんな山の上で生活など不自由しないのだろうか...とも。
平成9年3月。坂道の上のモノレールはその影を歩道におとす。脇のサツキは開発の余韻と文化の匂いをちょっぴり振りまいている。娘は結婚し家庭を持った。長男は大学生。アルバイトで得た車でアスファルトを走る。
21年の歳月で、ニュータウンは家庭に何をもたらしてくれたのだろうか...。
否。これからはこう問わなければいけない。私達はこれからの多摩ニュータウンに何を成し得ることが出来るのだろうか。
2.「多摩ニュータウンが生まれた時」
小澤貴美恵(公務員) 多摩市聖が丘
多摩丘陵さん、お元気ですか。
私の生まれた多摩川の向こう側府中から望むと、その風景は30年前とそう変わっていないけど、貴方の上に立ってみると、その変貌ぶりにびっくりですね。
私が子供の頃、過労で倒れた父のリハビリにと自転車で来た時、雑木林と所々の農家しか記憶がありません。でも今は、ニュータウンとして生まれ変わり、大勢の子供と大人とお年寄りとが、笑ったり、泣いたりして生活をしています。私の家族もその一員です。木を切られ、山を削られたのは、さぞ辛かったでしょう。でも、皆が幸せに暮らせるように考えられた新しい町ができ始めた時、あなたも嬉しかったのではないでしょうか。
今は、71歳となり、テニスもし元気でいる父と、幼き時よく来た聖蹟記念館の丸い建物の一部を見ることができるこの地に住む事になり、とても嬉しく思っています。ニュータウンは、老朽化、老齢化と問題も出てきたけれど、住む者としてより良い町になるよう努力したいと思います。これからも見守ってくださいね。
3.「ニュータウンと共に暮らして想うこと」
島田容子(主婦) 八王子市南大沢
多摩市の小中学校を卒業し高校に入学した頃、多摩ニュータウンの第一期生の入居が始まった。以来、ニュータウン内の中学校に7年間勤め、その間家庭を持ってニュータウンに暮らし今年で19年になる。
子供時代も、今はニュータウンとなっている地域で遊び回っていた訳だから、振り返ると人生の大半はニュータウンと共にあったと言えるかもしれない。
ごみごみした都心から移り住んで来たときの多摩は、まだのどかで素朴な農村の雰囲気が残っていた。そういう過去を知っているからこそ、この町に愛着があり住み続けてきたのだと思う。
多摩丘陵には有史以前から人が住み続けてきた。その土地で今また新しい町ニュータウンの試行錯誤が続いている。ニュータウン以前の人々の営みをすべてぷっつりと断ち切ることなく継続や融和、整合を求めながらより豊かに発展してほしいものだと思う。
4.「あなたへ」
小林照子(主婦) 多摩市貝取
私があなたにであってから早10年。
私の身の回りにも、いろいろなことがあり、随分顔にもしわが増えました。
その間、あなたも、随分変わりましたね。自然と共存し、豊かな緑を残しながら、住宅都市から、様々な機能を備えた複合機能都市へと、大きく発展してきました。とても驚いています。この間、地域に根ざした様々な地域活動が芽生え、広まり、そして触れ合いが生まれ、今ではそれが心のかようシンフォニーを奏でているような気がします。
私もこれからの人生、泣いたり笑ったりしながら、主人と共に希望をもって歩んでいこうと思います。
あなたも、医療・福祉・環境等さまざまな問題を抱えて、これから、21世紀に向かうことと思いますが、街づくりの主役はどんな時も“人”です。
私も、この変わりゆく街をただ傍観せず、柔軟で、一人一人の創意が生きる街となるように、また、一人でもどんな方法でもかかわれる街となるように、知恵を出し、応援をしていきたいと思います。
そして、願わくば、振り返れば“わたしのふるさと”と感じ、未来へは、“夢のもてる街”と思えるような、そんな街に育っていってほしいのです。
5.「元気に育て未来都市」
久野幸子(主婦) 八王子市南大沢
平成3年の春、新都庁舎や都立大学のどでっかい引越騒ぎの間隙を縫って辿り着いたのは多摩ニュータウンの南大沢でした。
標高160メートル程の丘陵地は花と緑につつまれていてのどかなかくれ里の様でした。大空の下、大山や丹沢の山岳が美しくその峰に輝やくばかりの富士山が顔をのぞかせているのに只々感激したものです。
ところが駅前には郵便ポストすら見当らず一軒のお店もなく途方に暮れました。やがて中郷公園道路や多摩ニュータウン通りも開通し駅前にも次々とビルが建ち新しい街が育ちはじめたのです。早速この貴重な街の成長記録を「南大沢のあゆみ」として書き続けています。
私達の趣味はサイクリングと散策でこの地図にもまだ載っていない未来都市を好奇心の塊となって駆け巡りつつ以前に住んだ千里ニュータウンや自然発生の街、練馬との比較対照とその住心地の違いを話し合う毎日でした。
この人工都市が人々の憧れの街になるかそれともゴーストタウンになるかは今が岐小道にきている様です。
お役所仕事にはない横のつながりのある憩いの街をみんなの知恵で民間の力もかりて育てて貰いたいと願っています。
6.今は昔「陸の孤島多摩ニュータウン」
原田 敬子 多摩市諏訪
多摩ニュータウンの第一期特別分譲諏訪団地に補欠当選したので見にでかけた。電車は勿論バスも鶴川〜聖蹟桜ヶ丘間のみ。鎌倉街道の南貝取で下りると赤土の山の向こうに巨大なコンクリート団地が林立していた。夫は三才の長女の手をひき,私は幼い二女を背負い団地に向かって人っ子ひとり通らない坂道を歩いて行った。「マダ?クタビレタヨ」「もう少しだからね」ようやくプレハブの公団事務所(今の永山小の場所)にたどりつき道を尋ねると諏訪団地は更に奥だという。こんな不便な所で暮らせるのだろうか?通勤は?など私たちの不安をよそにその若い職員は壁に貼ってある多摩ニュータウンの地図を示し乍ら語りだした。八王子や稲城にまで広がる未来都市ニュータウンの展望を!私たちの不安も解消され,辞退者が多かったので入居できた。あれから26年一緑と文化の街ニュータウンで暮らせる幸せを味わっている。でもあの若い職員に出逢わなかったら?とふと思う。
7.「多摩ニュータウンに寄せる想い」
武田 恵子(主婦) 多摩市中沢
多摩丘陵の一角に、ニュータウン計画ができてほぼ30年以上の月日が過ぎた。その間、たび重なる計画変更もあって、徐々に現在に形ができ上がってきた。この町に住んで20年、子育てから現役を終るまでの人生の主要な時期を、この町の変化と共に生活してきた。人口もどんどんふえて、多摩市の中核地域にまで大きくなってきた。しかし、現在では、かつて新型であった当時の住宅は、多くが老朽化し、50年は大丈夫と言われた鉄筋コンクリート構造の集合住宅も、20年がそこそこで、酸性雨などの影響も加わり、建物も、コンクリートももろくなり、間取りも大人になった子どもとの同居は、すでに困難な状況となってきている。若い世代が独立し、ますます高齢化する中で、最近は空家も目立ち、少子化現象に拍車をかけている。増設に増設の学校も等廃合となり、空いた校舎がさびしく点在している。
21世紀に向けて、このニュータウンも改造の時期を迎え、これから急速にくる高齢化とその対策に、本腰をかけなければならない時期が到来と考える。20年間の育った樹木はますます成長し、ドイツの有名なシュバルツバルト(黒い森)にも匹敵する風景の地区もいくつかある。この緑を大切に、計画適に作った施設を再構築してかつての子育て時期に味わった体験を生かして、この町のノーマラリゼイションをすすめ、大災害に会っても元気な町である様に、住民をやさしく包んでくれるニュータウンであってほしいと一そう願うものである。
住民の一人として、この自然環境との共生を考え、名実とともにニュータウンであるために、何らかお役に立てれば一そう幸せと思う昨今である。
8.「初めてのラブレター」
田崎 佐知子(主婦) 多摩市貝取
あなたとの縁が生まれて懐に飛び込んで早や20年が過ぎようとしています。初めて多摩センター駅に降り立った時の光景は今でも鮮明に浮かんできます。
3月にしては冷たい風が吹きあれ 埃っぽい 殺風景な所に「エー、こんな山の中のど田舎なの、ここに住むのー」という思いが頭はおろか 体中いっぱいでした。「着いたよ。ここだよ。」と云う声もどこか遠くにむなしく聞こえ他人事の様でした。見渡す限りサバンナのようで目指す我が家はバスで30分、終点近くなって、やっと団地らしき建物が目に入ってきて少しだけほっとしました。背中に長女、手には長男の小さな手、彼らも私同様とまどいと不安の入り交じった顔でした。そんなあれこれを経ながら自然の残るニュータウンを遊び場に、つくしや野の花を摘んだり、おむすびを持ってピクニック、隣の隣までサイクリングと親子、仲間で、四季折々、楽しい時を過ごしてきました。かなりあなたと仲良くやってきたと自負しています。不満も少々ありますが、今のところ良い面が勝っているようです。本当に理解できて分かるのはこれからでしょうね。最近、四角い建物がちょっと冷たく見えたり、近所の変化も多く、落ち着かない時もありますが、まだまだお世話になるつもりです。これからも、どうぞ宜しくお願いします。あ・な・た
9.「多摩市の危機」
三浦 理恵(無職) 多摩市永山
私は永山に住んでいます。住民の高齢化と人口減少が進んでいるようです。商店街は、新しい店舗ができても、すぐまた空家になっています。学校の統廃合もあちこちでおこり、選挙会場がどこだかわからなくなる始末です。多摩市はこれから、やっていけるのでしょうか。永山に複合施設ができますが、何を今さらという感じです。新しい街づくりは八王子市中心で、これでは多摩市はスラムと化してしまうのでは。かく言う私も、4月には八王子に移ります。
13年前、結婚と同時に団地に移り住み、緑に囲まれた気持ちのいい場所だと思いました。駐車場のため芝は半分削られ、駅にレジャー施設が出来、何か嫌な方向に変わって行く気がします。多摩市はいつか、壊れたおもちゃ箱になるのでは?
10.「私は多摩ニュータウン渡り鳥」
永井 修(大学院生) 多摩市落合
私が最初に多摩ニュータウンに引っ越してきたのは昭和60年2月,永山駅に近い公団の賃貸マンションでした。その後,昭和62年に豊ヶ丘の公団分譲マンションへ移り,さらに,昨年は落合の公団分譲マンションへ引っ越しました。私のような人間を地元の不動産屋さんは,典型的な”多摩ニュータウン渡り鳥”と呼ぶんだそうです。次は公団の一戸建が待っており,その節は宜しくと言っておりました。人間が少しずつ進化して,それとともに家のグレードが上がるのだと不動産屋さんは説明してくれました。自分が進化したとはちっとも思えないけれど,確かに家は広くなって設備も良くはなってきました。しかし,周りの環境は少しずつ低下しているような気がします。緑と土とパブリックスペース部分がどんどん減っていくのです。我が研究室の後輩がランドサットの画像処理で多摩ニュータウンの1986年と1995年の緑被率と夏の温度変化を解析したところ,9年間で緑被率は多摩センターを中心にして西部,西南部,東部で下がり,センターとそれらの地域の地表温度差が縮まったということです。つまり,最近開発された南大沢,唐木田,稲城の3地区で緑が減って,コンクリートだらけの多摩センター駅付近と温度差がなくなったと言うことです。最初に開発された永山地区は緑被率が高く,今では鬱蒼とした木立に囲まれている所も多くあり,この渡り鳥はちょっとコースを間違えたようです。それでも尚この多摩ニュータウンに住み続ける私たちは,すでにここを故郷と思い始めたのかも知れません。
11.「わが愛する町多摩ニュータウン」
加藤 かや(主婦) 多摩市貝取
第一子が生まれたのをきっかけに,この町へ引っ越して来たのは1985年の春のことでした。当時,多摩センター駅前は閑散としており,丘の上プラザがあるばかり,以前住んでいた吉祥寺と比べて,なんという不便など田舎に来たものかと,愕然としたものでした。
ところが,あれから12年経た現在,この町は文化と学術の香り高い見事に変身を遂げたのですね。なかでも私が大好きなのはパルテノン多摩……緑豊かな多摩中央公園に隣接し,わざわざ都心に足を伸ばさなくても,世界各国のアーチストたちのすばらしい音楽が楽しめるのです。と同時に,子供たちのバレエやピアノの発表会,市内の小中学生の合同音楽発表会などにも気軽に利用できるのが魅力的ですね。
最近特に印象に残ったのは,コロラテューラソプラノの女王E・グルヴェローヴァのリサイタルでした。女史のダイナミック且つ繊細な,魔法のような歌がかもし出す興奮の渦,そしてその中に自分がいて,今まさにその至福の時を大勢の人たちと共有しているのだという満足感……あれほど聴衆と歌手が一体感を味わった感動的な舞台は稀だと思います。
音楽コンクールも開催されている由,これを子供たちにまで門戸を広げて,音楽を学ぶ子供たちがその舞台に立つ事を夢見て,練習に励むことができるような発表の場を創り上げていく試みも,おもしろいのではないでしょうか。
美しい自然にはぐくまれた緑と文化の町ニュータウンの次なる挑戦に期待します。
12.「多摩ニュータウンとの出会い」
河本 節子(主婦) 多摩市鶴牧
多摩ニュータウンをはじめてこの目で見たのは今から6年前。多摩丘陵病院の人間ドックに入るため,川崎の宮前平からやって参りました。
新百合々丘から多摩線に乗って,多摩センターで下車。車中から見える風景は緑・緑の連続。永山あたりから忽然と現れたコンクリートの群。その余りの変化にしばらく頭がついていかず,「一体,ここはなんなんだろう…」と初めて見る多摩ニュータウンの姿にボー然としていたものでした。目が慣れてくると,ようやく私の頭も活動開始。
この町は以前行ったことのある筑波に似ている。道路中が広く,モダンな町づくり。公園の多さ。非常に印象の強い,多摩ニュータウンとの出会いでありました。
1年たって,まさか公団の分譲住宅が当たり,この地に移ってくるとは…。
しかし,今から考えると,あのインパクトの強さと今の住まいとの縁はただものではなかったのかもしれません。
多摩ニュータウンに住んで5年,現在小学校2年生の末の子の成長と共に,私も少しずつ自分を開花させて参りました。その手助けをしてくれたのが,この街です。
最後に,ながーい通勤時間に耐えて,私たちに良い環境をあたえてくれた主人にありがとう!
13.「多摩ニュータウンへのラブレター」
今村 恵津子(臨床言語士) 小金井市貫井北町
ペアティー計画という言葉の魅力ある響きを胸に,多摩丘陵をのぞむほこりっぽい開発区を中学生の私は歩いていた。地理の先生につれられて溝の口からバスを乗り継ぎ,長津田まで実地見学に行った昭和38年,多摩田園都市の建設が始まった頃のことである。工事現場の詰所でもらったパンフレットには,鉄道と都市の同時開発という理念を持って,自然を生かしつつ住居,ショッピング街,駐車場,学校,文化施設を備えた生活の拠点作りの青写真が描かれていた。こうした計画都市が現在では当たり前と思えるほど,これは後の都市作りの原型となったという事であろう。あれから30余年,多摩ニュータウンはずっと西までのびて,緑深い環境に都心から移転した多数の大学を包含し,一大文教都市に発展した。又,ここに流入した人々の市民運動に成る新しいコミュニティー作りにも注目されている。ベッドタウンとして始まった街が,今後ここを終の住拠とする立場から,高齢者にやさしい街へと機能をシフトさせていく時が来ているように思う。今私は,駅ビルの8階でフィットネスに汗を流しながら,すべての移り変わりを見てきた多摩丘陵に向かって,熱いラブコールを送るものである。21世紀の理想都市の原型となれ!
14.「多摩NT今昔」
高橋 ゆかり(無職) 八王子市南大沢
私は1973年に多摩NTに引っ越して来て以来,結婚してもなお,多摩NTから離れられずに24年間住み続けている。
「多摩NT」と言えば,今でこそ,多摩センター周辺の商業施設や整備された住環境で好印象を抱く人が多いと思うが,24年前は聖蹟桜ヶ丘駅からバスという交通手段しかなく,まさに陸の孤島という感じであった。
しかしながら,今にして思えば貴重なものがたくさん残っていた。貝取,豊ヶ丘周辺の田んぼで,春にはよもぎ,つくし,白詰め草などを摘み,近くの小川(既に埋め立てられてしまった)では,ざりがにを捕った。また,数多くの茅葺き屋根の民家が残り,私の住んでいた団地の真下には炭焼き小屋もあった。
厳密に言えば,これらは同じ多摩市でも多摩NTの開発地域外にあったものだが,多摩NTが近代的な街になったのを見るにつけ,昔の自然や生活の姿を残し,共存するかたちで開発を進められなかったのかと残念に思う。
15.「相性のよい?ニュータウンと鉄道」
三科 宏介(会社員) 町田市大蔵町
拝啓 多摩ニュータウン様
いつも御世話になっております。
はっきり言って私達鉄道は、「誰もが皆、朝鉄道で都心に出勤し、夜鉄道で家に帰る」という「常識」を飯の種にして生きて参りました。貴方のかつてのあだ名である「ベッドタウン」は、そんな常識を地で行っており。私達にとっては、まさに相性ピッタリの「恋人」でありました。
でも、最近ではその常識も時代遅れのようですね。貴方が複合機能都市など新たな常識を模索しているのに、私達はいつまで経っても昔のまま・・。例えば駅一つをとっても貴方とともに誕生した26年前から何一つ進歩せず、昼間や休日は閑古鳥が鳴いています。
都市における公共交通の相対的な地位低下、それは21世紀の我々の姿そのものなのかも知れません。
ニュータウンを人間にたとえれば、私達は血液の流れ。だとすれば最近の私達は動脈硬化?低血圧?それとも心臓(駅)虚弱??・・私達の元気はニュータウンの元気。「人が移動する」。「ちょっと出掛ける」。そんなふとしたことが、大きな活性化につながるといいですね。これからも、お互いよい「お友達」でいられますように・・・ 敬 具
16.「MY LOVE 多摩ニュータウン様」
小峰 美弥子(主婦) 調布市染地
私は多摩ニュータウンに住んでほぼ20年になります。今は嫁いだので実家ということになりましたが、小6の時から社会人になり結婚するまで過ごしました。多摩NTもまだ出来たばかりのころからずっと見て来ました。
入居当時は多摩センター駅は、まわりに何もありませんでした。仮設のバス停が駅前にあるだけで一面に丘が広がり、春はクローバーが咲いてとてもきれいだったのを思い出します。
多摩NTの好きなところはちょっと異次元ぽいところ。見知らぬ国にタイムスリップしたかのようです。東京なのに東京とも違う不思議な街です。
私の好きな風景をいくつかあげてみます。@パルテノン多摩から見る多摩NT全景。薄曇りの日などに時々空が割れて幾すじかの陽が差し込むと荘厳ともいえる景色。見るたびに多摩NTに住んでいてよっかたと思います。A南大沢5丁目付近、スペイン風の中庭や階段など異国ムードに時を忘れてしまいそうです。B愛宕から松が谷にかけての街路樹。夏、青々と葉が繁り涼しげです。秋の紅葉もまたとても美しいです。C鶴牧の杉?(わからないが針葉樹)並木。D尾根幹、道路の両側の変わったデザインの建物が楽しい。また堀之内〜南大沢の曲がりくねった丘の道も北海道かどこかの海辺の半島を走っているようでドライブすると楽しい。
他にもいろいろあります。
多摩NTは確かに新しくきれいなところです。大好きな街です。ただ20年住んでいて、私は時々、コンクリートばかりの家、作られた風景に息苦しく感じたことがありました。駅前に商店街が栄え、民家が思い思いに軒を並べるようなところにも住んでもみたかった。うまくいえませんが新旧入り混じった雑多な街も恋しくなります。
もう一つ気になることがあります。多摩NTの自然はどうしても人工的に作ったものです。ここに初めから生まれ育つ子供は本当の自然というものに触れないまま大きくなってしまうのかと思うとかわいそうな気がします。
今、私には1歳の息子がいます。昨年からちょうど私が生まれ育った所の近くで偶然にも子育てすることになりました。住んでいるのは同じように大きな団地ですが、もっと古いせいか、木々も大きくしっかりと根を張りまた、団地の空地には個人の作った花壇があり親しみやすい雰囲気です。まわりにもまだ畑が沢山残っていて道端には私が昔見たのと同じような草花が咲いていました。
多摩NTは、もっともっと大きな団地です。今も開発が進みまだまだ変わろうとしています。また歴史も重ねつつあります。木々もすっかり根付いてきました。どうか今後子供にも老人にも住みやすい暖かい街になりますように、そこで育った子供たちの心の故郷になるように...。
17.「多摩センター駅の今は昔」
川口博子(地方公務員) 多摩市落合
葛飾、金町から延々2時間程電車にゆられて多摩センターに来たとき、陽の光が輝いているような印象を受けました。このとき、やはり西に来るとこんなに陽射しが違うのかと感じたのが15年ほど昔の話し。しかし、多摩センター駅に降りたときの印象は、明るい陽射しとは裏腹に造成地が見渡すかぎり(少しオーバー)広がった「月の砂漠」でした。 ところが、現在の多摩センターといえばいたるところ新しい建築物が建ち並び、商業施設等が集積され、毎日のショッピングや催し物などがありとても便利になりました。
人々が行き交う歩道には季節の花々が。
人工的な街並みと言う人もいます、がここで育った子供たちには、大きな公園やきれいなレンガが敷きつめられた歩道などが故郷なのです。この歩道を歩いて駅前の百貨店やスーパーにいったことが子供の心に刻まれます。
他の地域への引っ越しなど考えられない今日の多摩センターです。
18.「多摩センターももう30歳になります」
佐藤茂子(地方公務員) 狛江市東野川
荒野のまち、陸の孤島などなど話題にこと欠かなかった昭和46年の第1回入居でした。その後も、文化財が発見され工事中止がかかったり、石油ショックで工事が中断されたりまた幹線道路の開放に住民大会が開かれたりといろいろありました。今、目の前にモノレールの橋桁が造られています。未だに刻々と変化を見せています。
大量の住宅を供給する事が使命だったころ、ゆとりがでてきて個性ある建物が望まれたとき、高級指向が当前えになったバブル期と、まさに時代を反映しています。
井戸端会議のできる辻や、下町風の路地、中世ヨーロッパ風の庭をもつ建物、建物の間を結ぶ石畳や坂道そして疎水を思わせる流れと千差万別な姿を持つわが街です。
公園をはじめ緑地も広場も沢山あるのに、子供の声が余り聞こえないのはやはり時代とはいえ寂しい気がします。
街は造られました。”まち”を創っていくのは、私たちです。
19.「めぐる街 めぐる夢」
山本弘一郎(コンサルタント) 多摩市愛宕
私の新婚生活は、昭和47年多摩ニュータウンでスタートした。出来たばかりの公社の10階で、愛宕1丁目だった。下に京王ストアーを中心とした商店街はあったものの、まだ多摩センターの駅もなく、近くのガソリンスタンドにはやぎまでいた。
その後すぐに北海道で3年ほど生活したが、子供が生まれることになったので、あわてて女房だけ先に返して、愛宕の4丁目の公社で出産させた。その娘も今年パルテノンで成人式を迎えた。
それからは多摩ニュータウン一直線で、貝取4丁目の中古住宅を求めてから、貝取の2丁目を経てまた愛宕4丁目に戻ってきた。
貝取4丁目では、緑化理事と委員を2ヶ年続けてやった。この団地は緑化活動に熱心なことで有名で、芝刈りは勿論のこと、樹木の消毒も毎年やる徹底ぶりだった。大変だった分思い出深く、夏祭りには、今でも植木を買い求めに行っている。
多摩ニュータウンの街で生活しながら新しい人達と巡り会い、新しい夢をめぐらせるそんな街に今も家族で住んでいる。
20.「多摩ニュータウンとわが家」
秦泉寺敏正 日野市平山
私たち夫婦は、昭和三十七年に結婚した後、私の両親と同居していました。勤め先まで自転車で十分の近さでした。当時、私ちと同年代の夫婦にとって、団地の生活はあこがれの的でした。運よく、永山団地の賃貸住宅入居者の公募に当選し、多摩ニュータウンの最初の住人になりました。入居が始まる日までに電話の架設が間に合わず、新聞が陸の孤島とおおげさに報じていたのがつい昨日のことのようです。
入居はしたものの、ニュータウンの建設は始まったばかりで、幹線道路や河川の改修工事の現場と同居しているような状況でした。団地は子供たちを育てるにはよい環境でしたが、通勤に、バス・電車・バスを乗り継いで、約一時間かかりました。日常の品物は団地内の商店で間に合わせましたが、ショッピングを楽しむときには八王子や新宿まで出かけたので、私にとって、多摩ニュータウンは、まさに、ベッドタウンでした。
一年後に、愛宕団地の分離住宅に入居しました。その当時、愛宕東公園にテニスコートができて、愛宕団地の住民によるテニスクラブが発足したとき、その仲間に入れてもらいました。その後、私は日野市に転居しましたが、コートまで車で十分ほどの距離なので、同じクラブでテニスを楽しんでいます。例年、正月の休日には高幡不動尊の参拝客や多摩テックをめざす家族連れの車で道路が大混雑するのですが、テニスの帰途、混雑の迂回路を走っているうちにニュータウンの広大な工事現場に迷い込んで、「わが家はどこ」と途方に暮れた思い出があります。
私のように、転居した仲間も多いのですが、今年の正月に開かれた恒例の親睦会には、静岡県など、地方に転居した仲間も帰ってきて、試合をしたり、その合間に、子どもたちの消息を尋ねたり、楽しいひとときを過ごしました。私たち、テニスの仲間にとって、多摩ニュータウンはなつかしいふるさとです。
あれから四半世紀の歳月を経て、街路樹が大きく成長し、ニュータウンの景観は落ち着きを感じさせます。当時、小・中学生だった子どもたちも結婚し、息子夫婦は南大沢学園の一番街に住んでいます。道路が整備されたおかげで、わが家とは車で十分の距離です。
スポーツを楽しんだり、スーパーやデパートで買い物をしたり、レストランで食事をしたり、ちょっとしたドライブを楽しんだり、わが家にとって、多摩ニュータウンは生活圏になっています。