【暮らし】
28.「多摩に移り住んで」
佐々木康子(無職)多摩市豊ヶ丘
二年前の阪神大震災で被災し一昨年七月縁合って多摩に越してきました。生まれ育った神戸を離れ東も西も判らない新しい環境に馴染む事は、た易い事ではありませんでした。でもこの地で二度目のお正月を迎えた今漸く両足が多摩の地にしっかり着いた感じが致します。そして多摩と神戸には共通点が多いことに気付いたのです。一言で言えばそれは自然とオシャレが見事に融合しているということです。センター駅からなだらかな傾斜をもってパルテノンの丘に向かう大通り、両側には緑の木々、四季折々の花が そしてそびえ立つベネッセの近代建築が視野に入りそれは神戸の坂の多い異人館通りと共通した景観であり モダンな街のたたずまいを見せています。この一年半の間に少しずつ周辺を尋ねて神戸の街の一部分を切り取ってこちらにはめ込んでもすっぽり納まるのではと 何度錯覚したことでしょう。
神戸は市民意識が高く人情も厚い街と言われその事は はからずもい今回非常の時に譲り合い助け合った姿となりました。願わくば多摩も新しい気風の中に文化の成熟と人情の温かさが育って欲しいと祈って止みません。
関西から友を迎える度に 私は大通りをゆっくり上がって、グリーンライブセンターを訪ね 温室の花々、ガーデンのハーブ達と親しむのをもてなしの一つとしています。私が多摩の土地・空気に早く慣れることができたのも、こんなところに因るのだろうかと、今は地縁いうことを沁々考えさせられています。
29.「冷たくなんかないこの街」
加藤英子(主婦)八王子市別所
多摩ニュータウンへの感想の中で、「清潔で緑も豊かだけれど、冷たい感じがする」とか、「うるおいがたりない」などという言葉がよく聞かれる。
私は、この街が、「都会的な田舎」、「田舎的な都会」といった雰囲気で、とても気に入っているので、なぜそのような感想が多いのか気になっていた。
私は、この街を歩くとき、いつも、「この道をまっすぐ行くと彼女の家だが、元気にしているだろうか。」とか、「このお店で前に見たマグカップはあの方の好みではないかしら。」などと、友達や知り合いの顔を思い浮かべる。すると、とてもこの街が、冷たくなど感じられない。この街に、寝に帰るだけではなく、この街に住んでいるのだという確信が、心に潤いをあたえてくれるのではないだろうか。結局のところ、何も新しいことではなく、その場所に根をおろし、根を張ってしまえば「住めば都」という事なのかも知れない。
30.「足元を見つめることから」
小野寺 賢治 多摩市落合
多摩ニュータウンで生活を始めてから二十年。この間、一度引っ越しをしているが直線距離にして五〇〇メートル程度の移動であるからほぼ同地域で過ごしたことになる。今後も、いまのところ他に移転する考えもない。ニュータウンに根付いたかにみえるが、それは表面的なことに過ぎない。
二十年間といえば、これまでの生涯のうち、一カ所での居住としては最も長く生活をしたところであるが、どうしたことか、ここでの「生活」の実感が残念ながら湧き上がってこないのだ。
生活の基盤である勤務地が都心にあり、早朝から夜まで「不在」ということもあるが、幼小期から青春期を含め、東京の東端に亀戸・平井といった喧騒にあふれた街での生活が長く、身にしみついているのためかも知れない。
しかし、ここに集まって来た人々は、それぞれの生活体験を引き継ぎながらここでの生活を築いてきたのだ。
定年を迎え、都心に出掛けていく機会も少なくなれば、この街に生活空間を求め作り上げて行くしかない。無趣味かつモノグサ人間にとっては、それもまた容易なことではない。
まず、周辺を歩き、足元を見つめることから始めようと思っている。
31.「安住の地を求めて、不安と魅力の狭間に」
河野 弘行(会社員) 多摩市貝取
多摩ニュータウンは、「仮の宿り」になるのだろうか。
我が家はもちろん大部分の居住者は、建て替えの時期到来に対しての具体的な策をほとんど持っていない。
現在住んでいる建物はいずれも堅固な構造のものである。しかし、いずれ年数を経ると陳腐化し、やがて住める状態ではなくなるであろう。何等かと事情で一挙に破壊されるような不幸な比ではないが、徐々にではあるが、しかし確実に時期が到来する。
建物について、家計には企業のような減価償却の観念がない。つまりローンの返済がやっとのことで、建て替えの資金には手が回らず、返済し終わるころには建て替えの時期が到来する。これでは、永久に借金を抱え続けることになる。
多摩ニュータウンもいずれオールドタウン化するときが来ることになるし、何かが対策があるだろうか。このような不安をかかえながらも豊かな自然と楽しいコミュニティがもてる多摩ニュータウンは、私にとって魅力的な地である。
32.
川井康弘 多摩市鶴牧
前略
新企画かと思いますが、良い機会を与えて頂き感謝します。
小生昨年5月国立市矢保より稲城市長峰に転居したもので老妻と二人暮らしで小生は未だ現役で、平日は調布飛田給の会社に通勤致して居ます。
国立も竹林に囲まれて良い環境でしたが、当地は又けて違いに良い。晴れた日には霊峰富士山が遠望出来、富士山の時々こくこくと姿を拝見しています。
良いことばかりではないようで買い物が不便なので、行きは良いよい帰りはこわいの例の通り行きは坂を下るだけ、帰りは荷を付けての状況で、バスで行くまどろっこしいで電気自転車を購入いくらか解消と云うところでしょうか、願わくばもう少し が欲しいところ。
次に,朝夕のラッシュ,老人のためおし倒されそうになります。出来れば解消方法として特急電車の稲城駅停車でもと素人考えです。
400字に未だありそうですがこの辺で失礼します。
御発展と御多幸を祈り上げます。 乱筆で失礼します。
33.「はみだし家族には ちと つらいかな ニュータウン」
四方田 弘美(遺跡調査補助) 多摩市永山
去年の12月。約18年住んだニュータウンを去りました。正確にいうと公団住宅をという事です。去りたくはなく,イヤイヤという感じだったので,今の生活がそのまま出来る様,近くの住まいを探しました。運良く見つかり,通勤時間,生協,友達,犬の散歩,美容院,すべて元のままの生活が手に入りました。違うのは公団ではなく民間だという事。ペットも一緒にどーぞという事。仕方なくなく移ってきたのですが,これが何と,日一日と快適気分が増していくのです。まず,なぜか解放感があり,自由を感じた事。前の住まいより狭くなったのにです。回りの方々とは時々会った時に挨拶する程度。それが,気のせいか,年齢層はまちまちでも皆,やさしい。ペットと暮らしているせいか,ペットをつれた時など,本当にかわいいという顔でお互い話し,ほめあいます。回覧板もない。団地で庭があっても規則で決められているからと,ペットを飼っているものは肩身の狭い思いをしています。おじいちゃん,おばあちゃんがいる様に,イヌやネコがいるのは当たり前。情操教育にも絶対にいいと思っていたのですが規則は規則という考えにけっこう縛られていて,ペットを連れた人と会うと,何となくぎこちないほめ方や挨拶になったものです。今思えば全般,そうだったような気もします。無意識にいい子でなければ回りを気にした子育てをしてしまったのではないかと思っています。はみださない様にとか。我が家の様に,4人4様個性の強い規定外家族は,同じ様な人たちが住む団地より,種々雑多な人が住む,自由な所に住んだら良かったのかもしれません。公団は安心,なんて思わないで。
今からでも遅くない。思ったように楽しく生活するぞ!
34.
矢沢 千鶴子(会社員)
90年に結婚と共にこの地へ来て,ちょうど今年で八年目の春を迎えます。
この間,長女が誕生し,その二年後には別所から上柚木に転居。
昨年の冬には長男も生まれました。ニュータウンでのわたしの生活は,働く母親としての生活とほぼ重なります。
ここは働く母親にはあまり優しい街とは言えないかもしれません。
都心の会社から18時ぎりぎりの保育園のお迎えに何とか間に合わせ,買い物は1週間に1回のまとめ買い。掃除も徹底的にできるのは1週間に1回ぐらい。
土・日は疲れてしまって子どもと一緒にお昼寝なんてこともしょっちゅう。
でも,わたしたちは当分,ここを離れたくありません。
春は,遠くの丹沢を春霞が多い,夏は夕方にもなれば涼しい風がふいてくる。
秋は秋で,アキアカネを追いかけることもできる。その夕焼けの美しさ。
冬は雪でも降れば子ども達はそりあそびができます。
自然は,都会から帰ってきたわたしたちに元気をくれます。
そして,本当にほっと安らげる自然がここにはあります。
35.「ハルお婆さん」(X)
浜田 康子(主婦) 多摩市永山
九十二才になろうというところで、ハルお婆さんが老衰で亡くなった。
四年間を老人病院で過ごし、「腹が減った」という言葉を最後に、人生の幕を閉じた。
旅先で知らせを受け、なんとか通夜に間に合うことが出来たが、わけあって夫の弟が意地でも葬儀は俺が出すということで、弟の家で営まれた。
何とあわれな晩年であったろう…「これでやっと荷が軽くなって良かったね」と、私の息子は遺影に語りかけていた。
財産全てひっさげて、弟達との事業の道を選択して、私達の下を去ったおじいさん・お婆さんの人生は、多摩ニュータウン開発によって百姓が土地を手離し、多額な現金を手に入れた人間の典型的な軌跡にすぎない。
亡くなったハルお婆さんは最後迄、取締役社長として、おそらく億に近い借金(ブラックマネーから)を背負わされて、あの世へと旅立った。
本人は何も知らない。利用されるだけ利用され、「早く死にたい」といつも言っていたハルお婆さんの入院費はとどこおり、入院を見舞う人も殆んどいなかった。
弟達が臨終を知らせてこないことは分かっていたので、私が時折様子を見に行っていたのだが、やはり長男である夫に連絡があったのは、もう瞳を閉じた後であった。
世間への見栄から喪主を主張する弟へ言いたいことは山程ある。でも「全ては終わった。」そんな感慨すら私にはあった。
会葬者の大方は、夫と私の関係者であった。
我が家の苔提寺の住職が夫や弟達を前にして、「喪主が弟さんでも自分がここに来たのは、正喜さん(夫)のお母さんだからです。正喜さんの日頃のお寺への貢献によって、お婆さんにも永代院号を認めましょう。そしてお寺の過去帳には正喜さんのお母さんということで記録させていただきます」とハッキリ言われていた。
こうして、ハルお婆さんは亡くなって私たちの守る先祖代々の墓へ入ることになった。
私が嫁いで二十六年、その頃始まった多摩ニュータウン開発は、こうして一人の人生を狂わせて、一つの歴史が終わった。
いくら弟達が悪いといったところで、長男の嫁として私も辛かった。
世間の口はやかましい。まして狭い部落の中では人の不幸を話の種に喜こぶ風潮すらあった。
けれど、ハルお婆さん、あなたは本当にやさしい人だった。
私は近頃、自分が年令を重ねる様になって、あなたの様にやさしい人間になれるのか、そうなりたいと思うことがあります。
弟達の罪もあります。あなた自身信ずる道を誤まってしまった責任もあります。そして、親や兄弟を納得させることの出来なかった、私たち夫婦の罪もあります。
こんなにやさしい人間を狂気にかり立てた多摩ニュータウン開発とは何であったのでしょう。
陰で踊った大手不動産・金融業者、そしてニュータウンというハードを作って、ソフトをおざなりにして来た行政の罪も又問われることでしょう。
「平成狸ポンポコ達」は、多摩ニュータウンを捨てて出て行きましたが、私は出て行かない。
この街に住んで、より住みやすい街へと努力してみようと思うのです。
十月五日、「ハルお婆さん」冥福をお祈りいたします。
42.「ご結婚おめでとう」
浜田 康子 多摩市永山
十一月三日、文化の日、肌寒さを感じるくもり日、永山五丁目にある「けやき」の公園で、結婚のお披露目が行われた。
新郎新婦から知人を通して、ぜひ私にお会いしたいという連絡があり私は花束を持って参加させていただいた。午後三時、白いタキシード姿の花婿と青いドレスの花嫁が現れると、集まった人達から拍手がおこった。「けやき」が縁で結ばれたという話をお二人からうかがって、なんだかトレンディードラマの舞台の中に自分も立っているようでとてもほほえましく、花嫁になれそめをうかがった。…「浜田さんという方が団地が出来る時、お家とひきかえに一本のけやきの木を守って、その木が植えられている公園があるという話をきいていました。どこにあるのか探していたのですが、ある朝五時雨の中を歩いていると、空が急に晴れ、虹が西の空にかかり、ふと見るとそこにけやきの木が立っていました。私はけやきにひかれるように、公園の中に入り、こんなハッピーな気持ちを独り占めしていいのかしらと考え、パソコン通信でその時の自分の気持ちを送ったのです。そういう木を自分も見たいと返事を送ってきたのが彼だったのです。以来、私はつらい時、悲しい時、いつもけやきのところに来て泣いたり、励まされたりしてきました。
結婚式はぜひここでという希望がかない、今日、お会い出来て本当にうれしいです」…
何と照れくさい話だろう。そしてもう公園が出来て五年もたち、「けやき新聞」を出しはじめて十年が経った。こんなこともあると良いなと思っていた出来事が、今日実現しました。でもこのけやきの木に託した私の夢はまだまだこれから。けやきよ今の私じゃあ、あなたに対して恥ずかしい。この十年間、私は精一杯生きてきたかと問えば、私は恥ずかしい。もっと何か出来るはずだと思いつづけて、最近では「人生こんなものよ」なんて妥協が頭をもたげるのよ。良いのかなこれで。
保育園の保母さんをしている花嫁のまわりには、たくさんの子供たちが集まり、二人を祝福している。
私はベンチに腰を下ろし、ひとまわり大きくなったけやきをつくづくと見上げていた。私はけやきにほとんど会いに来ることがない。その方が良いのだ。人間、つらい時、悲しい時、「けやき」に会いに来るなんて私には似合わない。私のまわりには私を心づかってくださる人達がたくさんいる。けやきは他の人達に大いに夢を与えつづけてくれれば良い。
そのために私は、あなたをここに預けた。
43.「多摩ニュータウンへのエール」
久保 恵理子(医療ソーシャルワーカー)
多摩ニュータウン、私が生まれた年に人々が移り住み始めた街。同い年の街に対して思うのが、もっともっと人に対して優しい街であってほしいということです。
ベッドタウンから独自の文化を持つ街へと急速に変わりつつある今、少し立ち止まってみることも必要だと思います。例えば、駅の周辺を見たとき階段が多く、バスから電車への乗り継ぎ、ホームまでの昇り降り、電車とホームの僅かなすき間、等が最近目につきます。駅は街の顔と言えると思います。アクセスの中心です。人の一生の中にも駅から始まることが多くあると思います。そんな新しい出発をどんな人にとっても優しい駅を持つ街から始められたらと、この街に関わり始めてから間もなく1年になる私が思うことです。 26年という共通の時間を経てきた多摩ニュータウンへの、お互いがいい発展をして行けるようにと言う気持ちを込めた私からのエールです。