「多摩ニュータウンの未来図」
         多摩ニュータウン学会会長  伊藤  滋 (慶応大学教授)

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伊藤 滋 会長講演

 私は、中野区のなべや横丁で生まれ、小学校時代は中野と杉並の間の現在、立正佼成会のあるあたりに住んでいました。それから昭和15年頃千歳烏山に移り、戦時中は北海道に渡りました。戦争が終わってから豊田の多摩平の今はなくなりましたが林野局の種養地のあたりに住みました。現在は三鷹の近くに住んでいます。私は京王線と中央線の間、山の手の区外の農村地域で一生を過ごしてきたといえます。

<都市と人>
 なぜ、このような話を始めにしたかといいますと、都市の性質がこの話の中に含まれているからです。人は定住する一方で簡単に移動します。つまり、都市は人が動くことが前提となって造られているのです。私たちは、都市がこのような性質を持つことを認識し、その中でどうしたら幸福に暮らしていけるのかを今、議論しなければなりません。
 都市計画や行政に関わる人は将来、人口はどのくらい増えるという数値を考えたり、人口は増えた方が良い、親と同居することが望ましい、といいます。しかし、その一方で人口がこれ以上増えるのは困ると考えている都市もあります。
 例えば、武蔵野市がそうです。この市は人口が増加しては困るので、人が入ってくることを拒みます。特に高齢者に対してです。
 これからの日本の社会、特に都心では離婚する人が増えてくることが予測されます。高齢者離婚はますます増えるのではないでしょうか。その結果、孤独を感じてもそれを耐えるような風潮が出てきているような気がしてなりません。

<現代社会を支配する相補依存関係>
 ここで、私は問題提起をします。それは「地域のみんなで集まって考えを出し合い、寄合って暮らしていくという、コミュニティーは本当に大切なのか」ということです。もちろんコミュニティーは大切だと私自身思いますが、学識者の話の結論は、いつも「コミュニティーは大切だ。」というもので、パターン化されているのです。
 しかし、これからの社会において、このパターン化された結論だけで、うまくいくのでしょうか。私はこの点に疑問を感じるのです。
 現在、社会には閉塞的な雰囲気が蔓延しています。それは社会全体が”相補依存関係”に依存しているためではないでしょうか。
 相補依存関係とはお互いに依存し、もたれ合う関係で、日本の社会に多く見られます。代表的な例が、会社人間ではないかと思います。会社人間は会社という組織の一員という意識を持っているために、会社を居心地よく感じます。これは組織に依存しているのです。
 日本社会は全体で依存しあっているので、その結果、社会全体が問題をかかえるようになりました。このような関係、馴れ合いが今の社会の風潮、閉塞的なものをもたらしたのではないでしょうか。
 また馴れ合いで、ものごとを進めていたので、肝心な議論がなされてこなかったことも事実でしょう。その議論とは「個(個人)と集団(町内会、団地等)の関係(付き合い方)」とか「限られた時間でどのように過ごしていくのか」といったものです。
 未来図を描くときにこれらの問題を取り入れず、真剣に取り組まなかった結果、現在のような高齢化に対する否定的、閉鎖的な雰囲気を生むことになったのではないでしょうか。

<助け合いの形>
 もし、ひとりひとりの自己確立が成立しても、やはりお互いに助け合わなければなりません。しかし、日本では助け合う関係がどうしても重たいものになるのです。
 私の友人のこのような話があります。
「外国から帰ってくると重たい空気を感じる。例えば、空港の入国案内のアナウンスや 電車のアナウンスなどを聞くとそれを感じる。これは組織が完全性を目指し、マニュアルを作り、それに従うためである。これが日本のあらゆるところの空気を重くするのではないのかと思う。」
 つまり日本の助け合いの関係は、組織のもたれあいの中で責任を明確にしないですまそうとする、日本の社会を象徴しているように感じます。

<新しい社会に向けて>
 このような社会の閉塞間を取り除くために相補依存関係による独特の社会習慣、制度を見直す時期に来ているでしょう。
 日本の独特の社会習慣とは、村落、長老といった権威主義的な集団です。
 私の専門分野で例を挙げますと、専門家というギルド集団が作り出した数値があります。延焼の恐れのある部分は自分の家から7mの部分とされています。(家を燃えにくくすれば3、4mでも可)しかし、この数値は一体どのようにして決まったかといいますと、これは昭和15年に空襲に備えた火災実験を行った結果から出された数値ということでした。これらを決めたのは都市計画の専門家の集団、つまりギルト集団という閉鎖的な集団が作り出したのです。日本の中の村落社会、長老社会、権威主義社会の縮図のようなギルト集団の作り出した数値は見直すべきでしょうし、こういった依存しあった関係も見直すべきでしょう。
 しかし、このような相補依存関係で成り立った社会を再構築するために新しいシステムをつくろうとするとまた、大変なのです。それは新しいシステムがどういったものならば、うまくいくのか皆目分からないためです。

<新しい社会システムと多摩NT>
 この閉塞的な社会が出来上がったのは、農村型社会が都市の中に多く作られたためでしょう。土地があればそこには地主がいます。そこへ企業が進出すれば、企業そのものが村長社会で成り立っていますし、学校もまた同じ事です。このように幾つもの農村型社会が集まっている、これが日本社会の実態なのです。
 ところが、多摩NTはこの性質を持っていません。つまり日本社会を支配している”しがらみ”とは無縁なのです。これは多摩NTの特徴といってもいいでしょう。
・ 先祖代々の土地のしがらみがない。
・ 新住民と旧住民の争いがない
・ 集団で生活の保障をもとめない(例:漁業補償)
・ 人間は常に動くものと考え、土地に対する執着が少ない
 これらの特徴をもつ地域で、未来のまちづくりの議論をすることは非常に価値のあることです。それは、新しい社会を考えるときにあまり抵抗がなく受け入れられると同時に新たなアイデアが出てくることがあると考えられるためです。
 昔ながらの街で、相補依存関係を崩すようなことをしようとすると、必ずその計画を除外しようとする存在が現れます。除外しようとする人たちとは地主であったり、地域の長であったり、資産を持った人です。これらの人は相補依存関係により、自分たちの社会を作り上げているわけですから、反対するのは当然のことです。しかし、「個の確立と集団の関係」を見直さなければ日本の社会は変わらないのです。
 今日はありふれた未来のまちづくりの話では議論が深まらないと思いこのような話をしています。

<まちづくりの新しい展望 ――地球環境問題と都市計画>
 これまでの話では、新しいことをするためには枠から出る必要がある、新しいアイデアを出すにはまったく違う議論、視点から考えることが必要ということを申し上げてきたのですが、これがは都市計画にもいえることです。
 都市計画において専門家の間では、コミュニティ、容積率、交通量という言葉を使わずに考えて行こうという試みがあります。これは専門家が既成の概念にとらわれずに新しいことを考えるためのものです。
 その新しい都市計画の視点とは地球環境問題から都市計画を考えることです。
 例えば、地球環境問題には水質汚染が挙げられます。このことから都市計画を考えると次のようなことになります。
 まず、水質汚染の原因となるゴルフ場、農地などの農薬を使う土地はまとめて埋め立て地につくります。これは汚染度が分かりやすくなれば、対策も立てやすくなり、効率的にまとめて処理できるわけです。そしてなにより私たちは地下水汚染を防止する技術を持っていないので埋め立て地に建てることが懸命でしょう。
 これからの都市計画は地球環境を考えてまちづくりを進めるべきでしょうし、そこには自分たちの活動で出たごみ等をリサイクルしていく問題をきちんと取り込んでいかなければならないでしょう。
 そのための1案として埋め立て地に発電所やごみ処理場、地下水汚染について学ぶセンターをつくることがあげられるのです。
 このように今までの枠組みから出て、新しいことを行うという話は多摩NTだから出来る話であり、またこの地域だからこそ、こういった話をする価値があると思い、今日お話いたしました。

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